第九話「有給という権利」
2026年07月21日
三世代カオス株式会社
第九話「有給という権利」
登場人物:鈴木ゴンゾウ(60歳・部長)/武富士アコム(34歳)/春日くん(22歳)
月曜日の朝。春日くんが、迷いのない足取りでゴンゾウのデスクに近づいた。
手に、一枚の紙を持っていた。
春日「部長、来週の金曜日、有給取りたいんですが」
ゴンゾウが紙を受け取った。有給休暇申請書だった。
理由の欄には、迷いなく書かれていた。
「推しのライブのため」。
ゴンゾウの眉間に、じわじわと何かが積み重なっていった。
ゴンゾウ「……理由が『推しのライブ』?」
春日「はい」
ゴンゾウ「有給ってのはな、病気とか冠婚葬祭とか、どうしても休まなければならないときに使うもんじゃないのか」
春日「労働基準法第39条によると、有給休暇は労働者が自由に使える権利で、理由を問われる必要はありません」
ゴンゾウが固まった。
春日くんは続けた。一切の迷いなく。
春日「理由を書いたのは、部長が把握しやすいかと思ったからです。書かなくてもよかったんですが」
ゴンゾウ「……書かなくてもよかった」
春日「法的には」
アコムが素早く立ち上がった。
アコム「春日くん、一旦待って。部長、来週の金曜日、業務的に問題ないか確認してもいいですか」
ゴンゾウ「……来週の金曜か。特に大きな案件はないな」
アコム「なら問題ないですね。春日くん、承認されると思うよ」
ゴンゾウはしばらく申請書を眺めていた。
それからペンを取り、承認欄に判を押そうとして——止まった。
ゴンゾウ「……一個だけ聞いていいか」
春日「何ですか」
ゴンゾウ「その……推しってのは、何者なんだ」
春日くんが、初めて少し表情を崩した。
春日「アイドルグループです。7人組で、全員ダンスと歌が……」
ゴンゾウ「7人か。チームワークが大事そうだな」
春日「……すごく大事です。7人それぞれ役割があって」
ゴンゾウ「ほう。どんな役割だ」
春日くんが、三分間、熱く語った。
ゴンゾウは、意外にも真剣に聞いていた。
アコムは、その光景を呆然と見守った。
これまで見たことのない組み合わせだった。
ゴンゾウ「……なるほどな。まあ、楽しんでこい」
春日「ありがとうございます!」
春日くんが、珍しく弾んだ足取りで自分のデスクに戻った。
ゴンゾウは申請書に判を押しながら、ぽつりと言った。
ゴンゾウ「……俺も若い頃、聖子ちゃんのコンサートのために有給取ったことあるな」
アコム「……それ、有給の理由はなんて書いたんですか」
ゴンゾウ「『私用』と書いた」
アコム「……春日くんのほうが正直ですね」
ゴンゾウ「……そうだな」
ゴンゾウが、少し笑った。
アコムもつられて笑った。
今日は穏やかに終わりそうだ——そう思ったとき、ゴンゾウが立ち上がった。
ゴンゾウ「アコム、お前の有給はいつ取った」
アコム「……去年、二日です」
ゴンゾウ「二日? 残り何日ある」
アコム「……十六日です」
ゴンゾウ「……それは、俺のせいか」
アコム「………………」
ゴンゾウ「…………そうか」
重い沈黙が落ちた。
ゴンゾウが、また少し丸くなった瞬間だった。
しかし翌朝、ゴンゾウはアコムに言った。
ゴンゾウ「アコム、今月中に有給を三日取れ。業務調整は俺がする」
アコム「……え」
ゴンゾウ「いいから取れ。お前にも推しくらいあるだろう」
アコム「……(ある)」
アコムは、この瞬間だけ、ゴンゾウ部長のことが好きになった。
ただし三秒後、ゴンゾウはこう言い添えた。
ゴンゾウ「ただし有給中もスマホは繋がるようにしておけよ。何かあったときのために」
アコム「理不尽ナリー(´;ω;`)」
※アコムはその後、三日間の有給を取得した。初日の午前中だけで、ゴンゾウから四回電話がかかってきた。
── 第九話 了 ──
