『鈴木ゴンゾウの日常』
2026年03月10日
鈴木ゴンゾウは、
自分が流行とは無縁の人間だという自覚はあった。
だから、
流行を追いかけることはしない。
そもそも、
追いかけ方が分からない。
その日、
ゴンゾウはいつものように事務所に来た。
古い革の鞄。
少し色あせたジャケット。
銀色の腕時計。
すべて、
十年以上使っているものだった。
「おはようございます」
席につくと、
若手たちの視線が集まった。
「……何だ」
「ゴンゾウさん」
アコムが言った。
「その鞄、
めちゃくちゃエモいですね」
ゴンゾウは止まった。
「……壊れていないだけだ」
「いや、それがいいんですよ」
「古いぞ」
「そこです」
そこらしい。
ゴンゾウは鞄を見た。
革は擦れている。
角も少し潰れている。
だが、
普通に使える。
「……普通だ」
だが若手は首を振った。
「逆にエモいです」
ゴンゾウは考えた。
(逆とは何だ)
エモいという言葉は、
最近知った。
感情が動くようなもの、
らしい。
「……これは感情か?」
「はい」
アコムは鞄を見て言った。
「なんか、
人生感じます」
「……人生は入れていない」
ゴンゾウは事実を言った。
昼休み、
若手の一人が言った。
「ゴンゾウさん、
その時計もいいですね」
「普通の時計だ」
「逆にエモいです」
またそれだ。
ゴンゾウは時計を見た。
電池式ではない。
針が動く。
ただの時計だ。
「……便利だ」
「その言い方もエモいです」
どうやら、
何を言ってもエモいらしい。
午後。
若手がスマホを見ながら言った。
「最近、
昭和っぽいの流行ってるんですよ」
「……昭和は、
流行ではない」
「いや、
雰囲気です」
ゴンゾウは考えた。
昭和は、
雰囲気ではなく、
現実だった。
だが、
今は違うらしい。
「ゴンゾウさんの
その真面目さもエモいです」
「……真面目は普通だ」
「それがいいんです」
ゴンゾウは理解できなかった。
だが、
嫌な気分ではない。
帰り道、
コンビニで肉まんを買った。
「袋いりますか?」
「……いらない」
その様子を見ていた
若い店員が言った。
「渋いですね」
「……普通だ」
「逆にエモいです」
ゴンゾウは思った。
(エモいとは、
古いことなのか)
家に帰り、
古いラジオをつける。
少し雑音が入る。
だが、
聞こえる。
ゴンゾウは小さくうなずいた。
「……普通だ」
だが、
もし若者が見たら
きっと言うだろう。
「それ逆にエモい」
意味はまだ
よく分からない。
だが、
悪い言葉ではないらしい。
それなら、
まあいい。
ゴンゾウは
ラジオの音を聞きながら
静かに思った。
「……流行というのは、
よく分からんな」
だが、
分からなくても
困らない。
それが、
ゴンゾウの日常だった。
(了)
