鈴木ゴンゾウの日常
2026年02月10日
鈴木ゴンゾウがガールズバーに行くことになったのは、
自分の人生において、ほぼ事故だった。
「行きましょうよ、ゴンゾウさん」
若手のアコムが、軽い調子で言った。
「……どこへ」
「ガールズバーです」
「……何の用だ」
ゴンゾウの問いは正しかった。
用もなく行く場所ではない、というのが昭和の認識である。
「社会勉強ですよ」
「社会はもう十分勉強している」
だがその日は、
仕事が一段落し、
断る理由が思いつかなかった。
店は駅前の雑居ビルの三階。
看板は派手で、
文字が多く、
信用に値しなかった。
(……酒を飲む場所に、
ここまで説明は要らん)
扉を開けると、
思ったより明るかった。
暗さも、怪しさもない。
「いらっしゃいませ〜!」
元気な声。
笑顔。
距離が、近い。
ゴンゾウは反射的に一歩下がった。
(……近い)
カウンター席に通され、
女の子が隣に座る。
「はじめまして〜!」
「……どうも」
この時点で、
ゴンゾウの中の昭和警報が鳴り始めていた。
(知らない女性が、
こんな距離で話す理由は一つだ)
――商売。
それは理解していた。
理解しているが、
慣れてはいなかった。
「お仕事は何されてるんですか?」
「……仕事だ」
「え〜、それ答えですか?」
ゴンゾウは困った。
仕事は仕事である。
それ以上でも以下でもない。
「……責任を伴う仕事だ」
「すご〜い!」
何がすごいのかは分からなかった。
「普段、こういう所来ないですよね?」
「……来ない」
「初めてですか?」
「……そうだ」
すると、
彼女は急に姿勢を正した。
「じゃあ、今日は楽しんでくださいね!」
(……何をだ)
ゴンゾウは、
楽しむという概念を探した。
酒を飲む。
話す。
時間が過ぎる。
だがここには、
目的がない。
昭和の男は、
目的のない場に弱い。
「ゴンゾウさんって、
優しそうですよね」
その言葉で、
ゴンゾウは一瞬、思考を止めた。
(……優しい?)
優しさは、
評価されるものではなく、
結果として滲み出るものだ。
「……それは、
自分で言うものではない」
「え、今の深い!」
彼女は笑った。
笑われているのか、
褒められているのか、
分からない。
分からないが、
嫌な気分ではなかった。
「お酒、強いんですか?」
「……弱い」
「じゃあ無理しないでくださいね」
(……なぜ気を遣われている)
ゴンゾウは混乱した。
ここは、
気を遣う場所ではないはずだ。
アコムを見ると、
隣の女の子と楽しそうに話している。
(……若いな)
世代の差を、
はっきり感じた。
「延長します?」
「……しない」
即答だった。
店を出ると、
夜風が冷たかった。
「どうでした?」
アコムが聞く。
「……不思議な場所だ」
「楽しくなかったですか?」
「嫌ではない」
「じゃあ?」
「目的が分からん」
アコムは笑った。
「目的なんてないですよ」
「それが問題だ」
帰り道、
ゴンゾウは考えた。
ガールズバーは、
恋でもなく、
仕事でもなく、
怪異でもない。
ただ、
**現代の“間”**が
そこにあった。
家に帰り、
風呂に入り、
湯船で一言、呟く。
「……昭和には、なかったな」
だが、
否定する気にはならなかった。
理解はできない。
だが、
拒絶するほどでもない。
それが、
今の時代との距離感なのだろう。
翌日、
ゴンゾウは普通に仕事をした。
何も変わらない。
ただ一つだけ、
確信したことがある。
自分は、
もう一度行くことはない。
だが、
行ったこと自体は、
無駄ではなかった。
「……社会勉強か」
そう呟いて、
ゴンゾウは今日も
平凡な一日を終えた。
(了)
