『物件怪異奇譚』―恋、発生。

2026年02月03日

鈴木ゴンゾウは、自分が恋をしているのかどうか分からなかった。

 分からないまま三日が経ち、
分からないまま五日が経ち、
分からないまま一週間が経った。

 きっかけは、職場だった。

 取引先の女性が、書類を渡すときに言った。

「鈴木さんって、落ち着いてますよね」

 それだけだ。

 それだけなのに、
ゴンゾウの脳内では、その言葉が何度も再生された。

(……落ち着いている)

 事実だ。
ゴンゾウは、落ち着いている。
少なくとも、外から見れば。

 だが問題は、
その夜から起きた。

 布団に入ると、
急にその言葉を思い出す。

「落ち着いてますよね」

(……何がだ)

 次の日、
また会った。

「お疲れさまです」
「お疲れさまです」

 普通の挨拶。
 普通の距離。
 普通の会話。

 なのに、
心臓が少しだけ忙しい。

(……これは)

 ゴンゾウは考えた。

(恋か?)

 だが、即座に否定した。

(いや、違う。
 これは単なる評価だ。
 仕事上の、性格評価だ)

 そう結論づけた瞬間、
なぜか少し寂しかった。

「……?」

 意味が分からない。

 昼休み、
アコムに聞いた。

「なあ」
「はい?」
「恋って、どこからだ」

 アコムは、箸を止めた。

「……突然どうしたんですか」
「理論だ」

「理論で恋は測れません」
「困る」

 ゴンゾウは本気で困っていた。

 仕事は普通にできる。
 食欲もある。
 眠れる。

 だが、
その女性の声だけが、
時々、頭に浮かぶ。

「落ち着いてますよね」

(……褒められている)

 翌日、
ゴンゾウは少しだけ意識した。

 姿勢を正し、
声のトーンを落とし、
より“落ち着いた人”を演じた。

「……鈴木さん、今日ちょっと元気ないですね?」

 失敗だった。

「……そうか」
「はい」

 その一言で、
ゴンゾウは悟った。

(恋は、
 落ち着くと失敗する)

 その夜、
ゴンゾウは決断した。

(確認しよう)

 確認とは何か。
 自分の気持ちの確認だ。

 翌日、
意を決して声をかけた。

「……あの」
「はい?」

 ゴンゾウは、
三秒考え、
五秒迷い、
十秒黙った。

「……今日は寒いですね」

 確認は、失敗した。

「そうですね」
 彼女は笑った。

 その笑顔で、
ゴンゾウの心臓は
はっきりとうるさくなった。

(……あ)

 その瞬間、
ゴンゾウは理解した。

(これは、恋だ)

 理解した瞬間、
行動は止まった。

 どうすればいいのか、
全く分からない。

 誘う?
 何に?
 いつ?
 どこへ?

 候補が、
一つも浮かばない。

 翌日、
彼女はいなかった。

「……あれ?」

 アコムに聞く。

「あの方、今日は?」
「午後から外出ですよ」
「……そうか」

 胸が、
少し静かになる。

 そして、
少し痛い。

(……これが失恋か?)

 だが、
次の日、
彼女は普通にいた。

「おはようございます」
「おはようございます」

 何も起きなかった。

 それが、
一番きつかった。

 数日後、
彼女が言った。

「鈴木さんって、
 彼女いないんですか?」

 ゴンゾウの思考は停止した。

「……いない」

「ですよね。
 落ち着いてるから、
 もう結婚してるのかと」

 勘違いだった。

 その瞬間、
恋は形を変えた。

(……これは)

 ゴンゾウは考えた。

(勘違いされたまま終わる恋だ)

 だが、
なぜか、
少しだけ楽になった。

「……独身だ」

「え?」
「独身だ」

 それだけ言えた。

 それ以上は、
言えなかった。

 彼女は少し驚いて、
笑った。

「そうなんですね」

 それで終わった。

 告白もない。
 進展もない。
 奇跡もない。

 ただ、
少しだけ、
心臓が騒いだ日々があった。

 帰り道、
ゴンゾウは空を見た。

「……平凡だ」

 恋は、
事件にならなかった。

 だからこそ、
ちゃんと恋だった。

(了)

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