物件怪異奇譚、あるいは平凡について1話

2026年01月27日

『物件怪異奇譚、あるいは平凡について』

――初回無料、150キロ。

 鈴木ゴンゾウがスポーツジムに行こうと思った理由は、特にない。
 強いて言えば、健康診断の紙に赤丸が多かったからだ。

「運動不足ですね」
 医者はそう言った。
 ゴンゾウは頷いた。
 意味はよく分からなかったが、頷くのは得意だった。

 ジムの入口は、やけに明るかった。
 鏡が多く、音楽が大きく、人が多い。
 全体的に「自分が場違いである」ことだけが、やたらとはっきりしている。

「初回ですか?」
 受付の若い女性が、笑顔で聞いた。
「はい」
「ではこちらにご記入を」

 名前、住所、緊急連絡先。
 ゴンゾウは、全部書いた。
 字は少し震えた。

「今日はどのマシン使われます?」
「……分かりません」
「大丈夫ですよ。じゃあベンチプレスから行ってみましょう」

 軽い感じだった。
 あまりにも軽い。

 案内された先には、金属の塊みたいな器具があった。
 ベンチプレス、と書いてある。

「最初は軽めで」
 トレーナーは言った。
「男性なら40キロくらいからですね」

 ゴンゾウは頷いた。
 40キロがどれくらいかは分からない。

 バーを持つ。
 冷たい。
 重そうに見える。

「じゃあ、持ち上げてみましょう」

 持ち上がった。

「……あれ?」
 ゴンゾウは首を傾げた。
 軽い。
 いや、軽いというより、何も感じない

「すごいですね、じゃあ60キロにします」
 重りが増えた。

 持ち上がった。

「えーと……80キロ」
 持ち上がった。

 周囲が、少し静かになった。

「……100キロ」
 持ち上がった。

 ゴンゾウは、困っていた。
 自分が何かを間違えている気がしたからだ。

「150、いけますか?」
 トレーナーが半笑いで言った。

 150キロ。
 さすがに重いだろう。
 そう思った。

 持ち上がった。

 一発で。

 ジムが、完全に止まった。

 音楽は流れている。
 人はいる。
 だが、視線だけが、すべてゴンゾウに集まっている。

「……あの」
 ゴンゾウは言った。
「これ、何か間違ってますか?」

 トレーナーは、無言でバーを見ている。
 重りを触る。
 ちゃんと、150キロだ。

「鈴木さん……でしたよね」
「はい」
「運動経験は?」
「ありません」
「学生時代は?」
「帰宅部です」

 沈黙。

 隣のマッチョが、ぽつりと呟いた。
「……あの人、誰?」

 ゴンゾウは、気まずくなった。
 目立ちたくなかった。
 健康になりたかっただけだ。

「すみません」
「いえ」
「もう一回下ろしますね」

 二回目も、普通に上がった。

「……これ、怪異ですか?」
 誰かが言った。
 誰が言ったのかは分からない。

 トレーナーは咳払いをした。
「えー、初回の方にしては……才能がありますね」
「才能?」
「筋肉の」

 ゴンゾウは自分の腕を見た。
 太くない。
 むしろ、だらしない。

「……筋肉、あります?」
「理論上は、あります」

 理論上。

 その言葉が、妙にしっくりきた。

 その後、ゴンゾウは丁重に扱われた。
 マシンは全部「一番重い設定」で試され、
 全部、普通に動かせてしまった。

 汗は、出なかった。

「鈴木さん、プロテイン飲みます?」
「いえ」
「なぜです?」
「よく分からないので」

 帰り際、受付の女性が言った。
「次回も来られますか?」
「……考えます」

 ジムを出ると、外はいつも通りだった。
 夕方の風。
 コンビニの明かり。

 世界は、何も変わっていない。

 ただ一つだけ、変なことがある。

 ゴンゾウは、
自分が強いのかどうか、まったく分からなかった。

「150キロ……」
 呟いてみても、実感はない。

 家に帰り、
いつものように階段を上った。
四階。
息は、少しだけ切れた。

「……普通だな」

 ゴンゾウは安心した。

 翌日。
 筋肉痛は、なかった。

 ただ、スマホに一通の通知が来ていた。

《ご入会ありがとうございます
 ※初回記録:150kg》

「……記録?」

 ゴンゾウは画面を見つめ、
そっとスマホを伏せた。

 強いかどうかは、どうでもよかった。
 分からないままの方が、平凡でいられる。

 そう思った。

(了)

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